TAP DANCE LOGO
INSTRUCTORS
STUDIO : 戸塚スタジオ
NETWORK
SCHEDULE
EVENTS
COLUMNS
DANCE TEAMS
LINKS
OUR MASTER : 佐々木 隆子
COLUMNS

Vol.1550 2018お騒がせ芸能人沢田研二さん
 2018年最も私の記憶に残るお騒がせ芸能人と言えば歌手の沢田研二さん。沢田さんがさいたまスーパーアリーナのコンサート当日、集客が出来ていない事にぶちギレ、コンサートをドタキャンした事件がありましたね。「チケットがどれだけ売れていたって席が埋まらなかったらダメだ!」という沢田さんの言葉がえらく説得力がありました。もちろん「ドタキャンなんかするなよ!」と他人事ながら腹がたちましたが、スターとしてのプライドは理解できました。
 今から36年も前に私の師匠が新橋ヤクルト・ホールでリサイタルを開催したのですが、座席数600位しかない会場なのに、すでに800枚くらいのチケットを売ってしまったのです。いくら全自由席でも売りすぎと思ったので「座れない200人のお客さんが怒りだしますよ!」に対し、帰ってきた言葉が「チケットが売れていたって客席が埋まらなかったらダメなのよ!」で沢田さんと全く同じでした。
 師匠はそれより3年前の初めてのリサイタルでは、大型台風が直撃したのに会場が満席だった事を何よりも誇りにしていたので、この時も再び満席にしたかった訳ですね。弟子の私達がどの様に師匠を説得し、解決したのかは今回の主題ではありませんので省略いたします(知りたい方は直接お問い合わせを)。
  * * *
 古い話なので知らない方も多いはずですが、1960年代にイギリスのザ・ビートルズの大人気にあやかって日本でも沢山のザ・ビートルズが誕生しました。それがグループ・サウンズ(GS)であります。中でも沢田さんがリード・ヴォーカルをつとめるザ・タイガースは最も人気がありました。水谷豊監督の映画『TAP』に出演している俳優の岸部一徳さんもそのザ・タイガースのメンバーのひとりでした。
 私は6歳でそのザ・タイガースの大ファンになりました。両親が買ってくれたたった1枚のザ・タイガースのレコードが『モナリザの微笑』(1967年8月発売)でした(コラムVol.527をご参照)。ヨーロピアン・スタイルの衣裳を着たメンバーが素敵です。音楽はきれいなのに静かすぎて乗れないので、B面に収録された『真っ赤なジャケット』の方がお気に入りでした。ライブ会場で収録したのか女の子のキャーキャーという絶叫が聴こえます。いまだに『東京リズム劇場』の主題歌が歌えないくせに、『モナリザの微笑』は完璧に歌えるのですね。すみません!
  * * *
 ある年のお正月、両親がザ・タイガースの映画を見せてくれる!と言う。毎日毎日朝から晩までテレビやレコードで若い女の子たちのキャーキャーという絶叫を聴かされていた母はパスしたので父に連れられて亀有の映画館へ。
 豪華グループ・サウンズ3本立て。父は映画を途中から見る事が平気なのですぐに入場。真っ暗な中でも空席をパッと見つけて着席。
 父が隣の席の女の子に「今何やってるんですか?」と聞くと「ドリフターズです」と女の子。
 大金のつまった大きなトランクが空から落ちてくると爆発してドリフの5人が真っ黒になる『ドリフターズですよ!盗って盗って盗りまくれ』のラストシーン。萩原健一さんのザ・テンプターズ主演映画『ザ・テンプターズ 涙のあとに微笑みを』に続いてお待ちかねザ・タイガースの映画『ザ・タイガース 世界はボクらを待っている』でした。沢田さんがアンドロメダ星のプリンセスと恋に落ちるメルヘンチックなSFコメディ映画でしたが、観客の女の子は皆さん静かだった!帰宅して母にそう報告しました。確か。
  * * *
 あれだけ夢中だったザ・タイガースもあっという間に解散してしまいました。沢田さんだけはソロ歌手として人気歌謡番組『ザ・ベストテン』の常連歌手として1980年代半ばまで最高の人気を保ちました。
 1984年にアメリカ映画『ワンス・アポン・ナ・タイム・イン・アメリカ』の主題曲をカバーした『アマポーラ』を歌い、私は初めて沢田さんのレコードを自分で買いました。その年の『NHK紅白歌合戦』で『アマポーラ』を堂々と歌った沢田さんが最高でしたが、また最高に笑えました(長くなるので触れませんが、ご興味のある方は『アマポーラ』関連コラムVol.103415をお読み下さい)。
 私がスマートでセクシーな沢田さんを見た最後の日であります。
  * * *
 最近、日本のグループ・サウンズがどうしてザ・ビートルズになれなかったのか?を検証する『グループサウンズ文化論』という本を買いました。プロデューサーやら音楽家やらプロの皆さんがグループ・サウンズやザ・タイガースを色々分析して解説してくださるのですが、私などは今一つピンときません。そんな中、全盛期のザ・タイガースの衣裳を担当したコシノジュンコさんは「突然、浮世離れした美男子が現れたという感じ。日本ぽくもないし外国かぶれもしていない。不思議なチャーミングさが女性に受けたのでは?」とザ・タイガース、特に沢田さんが際立っていたと。さらに音楽評論家の湯川れい子さんは「音楽のメッセージがなくたって、ただ女の子の叫ぶキャーッ、でいいんです。常に女の子のキャーッというのものは安全なんです」。これらのコメントこそが的を得ている様に思えました。なんせ6歳の男の子をも夢中にさせたのですからね。現在に続くジャニーズ人気も全く同じです。
  * * *
 12月に入り自分へのクリスマス・プレゼントとして沢田さんのコンサートDVDを買いました。ゲストでザ・タイガース時代のメンバー3人が顔を揃えた上、ザ・タイガース時代の曲がズラッと並んでいたからです。2012年1月24日、日本武道館での収録とか。
  * * *
 最近の沢田さんはザ・タイガース時代の曲やソロ時代のヒット曲をあまり歌わないそうです。変なこだわりを捨ててもっと観客寄りの考え方や選曲をすれば、集客の苦労などしないのでは?と思いましたし、このコラムでああだこうだとケチをつけられることも無かったのではないでしょうか。それでなくても全盛期の体型も面影も皆無の珍しい芸能人なのですから。少しは草笛光子さんや中尾ミエさん等の女性陣を見習って欲しいものです(ファンの皆さんご免なさい)。

《ザ・タイガース トリビア》
・1965年6月に京都で「サリーとプレイボーイズ」を結成。
・1966年元日に沢田研二が加わり「ファニーズ」に改称。
・1966年5月、「全関西ロックバンド・コンテスト」に参加し、約30バンドを抑えて優勝。
・1966年11月、勢いに乗ってテレビ番組『ザ・ヒットパレード』に初出演。収録当日、番組ディレクターのすぎやまこういち氏に「大阪から来たわけ?じゃ、タイガースだ」と言われたが、「いえ、京都です」と言い返せずに、プロ野球の阪神タイガースにちなんで「ザ・タイガース」というバンド名が与えられた。
・ちなみにTigerの複数形Tigersの読み方は、タイガー“ス”ではなく、正しくはタイガー“ズ”。
・1967年2月、シングル「僕のマリー」でデビュー。録音曲を渡されたメンバーは、ロックバンドを目指していた自分たちの音楽志向との違いに大いに失望した、らしい。
・所属プロダクションのアイドル的プロモーションに、募らせていた不満がついに爆発。1971年解散。
・少しは考えが大人になった1982年と、かなり打算的な大人になった2013年に再結成。

天野 俊哉



Copyright 2005 Y's Tap Dance Party. All rights reserved.