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Vol.1538 レイモンド・チョウ氏追悼〜香港映画を世界に
「レイモンド・チョウ氏が亡くなりました」
「えっ、誰ですか?中国バレエの大家ですか?」
「いえ、香港映画界の敏腕プロデューサーです」
「はあ、香港のミュージカル映画とかですか?」
「いいえ、カンフー映画ですよ!」
「・・・」
 もう皆さまぶちギレ寸前のお顔が目に浮かびますね。
 レイモンド・チョウ氏が香港映画界にスカウトして世界中に名前を拡げたスターこそが伝説のブルース・リーであり、現在も大活躍を続けているジャッキー・チェンであります。
 本当に凄い人であります。

 1950年代に香港に設立されたショウ・ブラザースという巨大な映画会社の経営方針やいつまでも変わらない製作システムに我慢のできなくなった製作部長レイモンド・チョウ氏がロー・ウェイ監督ら数名を引き連れて独立してゴールデン・ハーベスト映画会社を設立したのが1970年。若手女優のノラ・ミヤオとマリア・イーをスカウトして製作を開始しました。
 その頃、サンフランシスコでカンフーの道場を開き、ハリウッド俳優らに指導をしていたのが中国人の武道家ブルース・リーでした。テレビドラマ・シリーズ『グリーン・ホーネット』で有名になり、香港映画界のショウ・ブラザース映画会社からオファーがきましたが、ギャラが折り合わず決裂。そこに名乗りを挙げたのがレイモンド・チョウ氏でした。ブルース・リーの提示した高額な契約金で手を打ちました。
 晴れてゴールデン・ハーベスト映画の専属俳優として製作された『ドラゴン危機一発』が世界中で大ヒットを記録しました。ブルース・リー主演のカンフー映画はどれもヒットしたのですが、1973年7月にブルース・リーが32歳の若さで急死してしまいます。
 さて、世界中で有名になったブルース・リーの名前を生前全く知らなかったのが何と日本映画界と日本人だったのです。
 たまたまブルース・リーがハリウッドと香港の合作映画『燃えよ!ドラゴン』に主演していたことから日本に映画が輸入され、大ヒットしたことで有名になりました。1973年暮れの事です。
 さあ、我らがレイモンド・チョウ氏の出番はここからです。チョウ氏が初めて来日した時に持ってきたのはブルース・リー主演映画ではなく、ジミー・ウォング主演の『片腕ドラゴン』という作品でした。「何か違うんだなぁ〜」と劇場に詰め掛けたカンフー映画ファンは思ってたものです。
 チョウ氏、策士ですね。
 香港映画界に遺された、たった3本のブルース・リー映画を巡って日本中の映画会社がしのぎを削ったのです。1974年当時の映画雑誌にはブルース・リーと同じ位レイモンド・チョウ氏の名前が登場したものです。
 結局、ブルース・リー主演映画の2本は東宝東和に、残る1本は東映洋画部に売るという策士ぶりをみせました(ちなみに、ジャニーズのカレンダーもグループごとに発売元が違うのですよ!)。

 ブルース・リーが過去の存在になってからもレイモンド・チョウ氏のカンフー映画愛は変わらず、ブルース・リー映画で脇役だったサモ・ハン・キンポーやスタントマンだったジャッキー・チェン(コラムVol.1361をご参照)、そのジャッキーの吹き替えスタントをつとめていたユン・ピョウをスターとして育てて、ブルース・リー以上の大スターにしました。特にイケメンのユン・ピョウは日本でも女性に大人気となり、私が出演した『落陽』(コラムVol.298をご参照)を始め、4本の邦画に出演しています。
 また、カンフーだけでなくホイ兄弟主演の『Mr.Boo!』シリーズやキョンシーが登場する『幽玄道士』シリーズ等も製作しています。香港映画を広く世界中に拡げた功績は大きいですね。
 これだけビッグなレイモンド・チョウ氏ですが、残念ながら評伝などは発売されてません。91歳まで長生きしたチョウ氏のことがもっと知りたいものです。
 レイモンド・チョウ氏のご冥福をお祈りいたします。

天野 俊哉



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