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OUR MASTER : 佐々木 隆子
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Vol.1820 佐々木隆子先生29回目の命日(その@)
 3月の佐々木隆子先生のお誕生日は弟子である私達の間で笑えるひと騒動がありましたが、天国の隆子先生は「みんな私の事忘れてないのね!」と喜んで下さったに違いありません。
 へそ曲がりな私は4月22日の命日にかえて自分がタップダンスを始めた時の事、佐々木隆子先生のスタジオに入門した頃の話をしたいと思います。
 えっ、隆子先生の命日なのに?
 皆さまブチ切れ寸前のお顔が目に浮かびますが、そんな皆さまはぜひ佐藤昇先生、隆江さん、淺野康子さん達の素敵なインスタをご覧頂きたいと思います。

 さあ、長くなりますよ!
 14歳でミュージカル映画『ザッツ・エンタテインメント』(1974)を観てタップ・ダンスにはまった天野ですが、今と違いタップ・ダンスを習える場所なんてありませんでした。わずかに中野ブラザーズさんがテレビや舞台で踊る程度、1970年代の日本でタップダンスは忘れ去られた物でした。
 『ザッツ・エンタテインメント』の第2弾が日本公開された1977年になるともう寝てもさめてもタップ・ダンス、タップ・ダンス、タップ・ダンス、「死ぬまで1度はあんな風に踊ってみたい!」と思った私はついに電話帳でダンス教室のページを切り取り片っ端から電話をし始めました。そのほとんどが社交ダンス教室で、中には暇こいた社交ダンスの先生と長話をしたり今では懐かしい経験です。
 結果《中川三郎ダンススタジオ》が唯一残りました。当時、都内のあちらこちらにスタジオを構えておられた中川三郎先生ですが、さすがにタップ・ダンスは本部の大岡山、巣鴨、新宿、大森などわずかでした。後年の事ですが、橋爪麻美さんは大岡山に、阿部久志さんは巣鴨に入門する事になります。そして大森で社交ダンスとタップ・ダンスを指導されていたのが中川冨佐先生、つまり佐々木隆子先生だったのですね。

 私は通いやすそうだった新宿スタジオに見学にうかがいました。現在もそのままの形で残る歌舞伎町の入口の雑居ビルの4階、髪が長くてスレンダーな松本義男先生がタップダンス担当で早速入門しました。想定外だったのは、そのスタジオはあくまで社交ダンスのスタジオなのでタップ・シューズが履けない!さらには先生が30分位直接指導のプライベート・レッスンだった事です。私みたいに「タップ・シューズを履いて少し踏めればそれで満足!」というふざけた16歳には荷が重すぎた?先生からわたされるA4の紙にズラーッと書かれたステップの名前を覚えて、ステップを踏めなければいけない!意外に松本先生厳しくてコワい!毎週毎週早く到着しては紙を片手に窓際で靖国通りを見下ろしながらCONVERSEの音の出ないスニーカーでキュッキュッうるさいタップを踏みながらの自主練。もう、つまんない!フレッド・アステアもジーン・ケリーも幻想になりつつあったその頃、タップ人口が増加したからと日曜日の昼間にタップダンス・クラスが出来ました。プライベート・レッスンよりは楽になるかと思いきや20名近い生徒は全部女性でしかも皆さん私より年上、それに加えて“日曜日の新宿”というロケーションが悪すぎた!毎週新宿には出掛けても向かう先はスタジオでなく映画館に。いつの間にかスタジオに行かなく?行けなく?なりました。わずかに1年足らずの短いタップダンス人生でした。

 後年ナショナル・タップ・デーでご一緒した清水理恵子さん、嶋崎千束さんは私よりも少し後に松本義男先生のタップ・ダンスクラスに入門されたそうで、あのA4の紙とステップと先生が厳しかった話題で盛り上がりました。ステップの名称の紙って今考えると凄く価値のある物だったのに持っていないし内容も覚えていないのは残念です。

 「もうタップダンスなんて習わない!」と誓った浪人中の18歳の時、たまたまテレビでエレノア・パウエルみたいにタップ・ダンスを踊る素敵な日本女性を見たのです。それが佐々木隆子先生でした。キレイな人だなぁ!
 すっかりファンになり、先生が出版されたタップダンス入門書を早速購入、全く入門する気は無かったけど出版社に読書感想文を送りました。するとすぐに返事が来たのです!佐々木隆子先生ご本人から。

 つづく

天野 俊哉



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