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OUR MASTER : 佐々木 隆子
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Vol.1733 私が自分史に書きたいこと
 先のコラムで神田教室の丸野悦子さんが出版された自分史を取り上げました。丸野さんの貴重な戦争体験から幸せな今日までが率直に綴られており、近年これだけ感動した書物はありませんでした。もし私が丸野さんの様な自分史を書くとしたら、絶対に書き留めておきたいのが2年前の夏にガンで亡くなった母の最期の日々かも知れません。

 80歳を過ぎてガンの手術をうけたものの3年後に再発。今思うと病院で最期を、という選択をすべきでしたが、母の希望で残された時間を自宅で過ごすことになりました。そして医師の告示からわずか一月で召されてしまいました。大抵は悲しみに包まれる物ですが、私の場合は自宅療養を経て葬儀、そして納骨までがドタバタの連続で、ツラいだとか悲しいだとかを通り越してホント不謹慎ではありますが可笑しかった!というのが本音で、泣くに泣けませんでした。

2018年7月20日(金)〜21日(土)
 自由ヶ丘でインドカレーを食べてる私に《母危篤》の電話が。教室を休講にして実家に駆けつけました。
 「母の最期を看取ろう!」
と父、私、私の妻の3人は一睡もせず、食べるものも食べずに母の枕元に。
 何度か苦しそうで息の止まりそうな母を見て
 「いよいよかな?」
 しかし、直ぐに持ち直して息を続けるのです。
 それがふた晩続きました。
 こんな光景何処かで見たな?
 そう、ドリフのコントだ。
 危篤ってもっとわかりやすくて、ドラマチックで、あっさり終わる物じゃなかったの?

7月22日(日)
 こんな状態が続いた為、完全にバテた看取り3人組は眠気に逆らえずいつの間にか熟睡してしまいました。すっかり夜が明け朝3時を過ぎた頃、ハッと、しかも同時に飛び起きた3人が母の枕元に駆けつけるとまだ息を続けていました。
 ホッとしたけどこらたまらんな。
 その頃、私のまわりで身内の危篤を経験していたのは淺野康子さんだけだったので電話をしてアドバイスを頂く事に。
 「すみません、危篤ってどれくらい続くものなんですかね?」と私。
 「私の叔父は2週間危篤状態でした。元機動隊の隊長だったからか、心臓が強かったみたいです」と淺野さん。
 そんな強心臓の方と母を比べていいのかどうか、何はともあれ淺野さんのこの言葉に安堵した私達は、母を父ひとりに任せ一度解散する事に。
 自宅に帰りお寺や葬儀会社等への事前連絡の行動に移りました。
 葬儀代金がいくらか?
 そもそも家族葬って?
 お布施がいくらか?
 戒名がいくらか?
 夏場の安置所なんて空いているのか?
など普通ならば聞けない事でも率直に質問してしまうとナイスな回答を得られるもので、例えば田舎だと数百万円が相場と言われる戒名も我が家は数万におさえました。山のような難問を1日かけて解決し母の最期に備えました。

7月23日(月)
 春日部駅前のカフェでコーヒーを飲んでいる私の携帯に電話が。心臓の強い母は危篤の告示から4日目の夕方に亡くなりました。父はと言えば日課の散歩中だったとかで見事に看取り損ねたそうです。父は「散歩なんかに行かなければよかった!」と後悔しておりました。確かにそうだね。その父も母を追うように昨年旅立ちました。

 これらはほんの一部であります。母は発病から自分の病気生活を日記に残しました。さらに末期ガンの宣告をうけた私と父も母の最期を日記に残しました。どれくらい価値のあるものかは分かりませんが、家族の最期を自宅で迎えようという方には貴重な体験談だと思います。流石にY'sサイトのエンタメ・コラムにこれらを掲載する事は憚られるので、自分史を出版する際にはぜひ面白おかしく、そして率直に書いてみたいと思っております。「親の危篤や最期を面白おかしくなんて不謹慎」とお怒りの方もいらっしゃるかもしれませんが、私なりの愛情表現ですので、どうかご容赦ください。

天野 俊哉



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