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OUR MASTER : 佐々木 隆子
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Vol.935 生誕100年記念フランク・シナトラC
 私がフランク・シナトラの映画と出会った頃からの話が長く続きました。
 最後に歌手としてのフランク・シナトラについても少し触れなければいけませんね。
 日常生活が乱れていた遊び人のフランクゆえに何度も歌手生命の危機が訪れました。
 ハリー・ジェームス楽団やトミー・ドーシー楽団の専属歌手から1942年に独立してソロ歌手デビュー。RKO映画やMGM映画で活躍していた1946年辺りまでのフランクはソフトで優しい声をしていました(専属アレンジャーはアクセル・ストーダル)。やがて戦争が終わりフランクのバラードが古くなりかけた時代に、コラムニスト達との確執から喧嘩などが絶えず。
 深酒や生活の乱れから喉を痛める事に。
 最大のスランプ時代にアレンジャーをジャズ派のネルソン・リドルに替えますが、これが今日の〈ジャズ歌手フランク・シナトラ〉のベースを築く事に。声は以前よりもグッと太くなりました。良く円熟してきたなる表現をする評論家がいましたが、私は単に声が悪くなっただけだと思っています。もはや“Ol Man River”の様な声量を必要とする歌は歌えなくなりました。
 それでも“All the Way”から“Come Fly With Me”etc. ヒット曲を連発させました。
 1950年代後半からはビリー・メイをアレンジャーとして迎え、さらにジャズのスタイルを安定させます。そして1960年代には“My Way”を、1970年代には“NewYork NewYork”を大ヒットさせてしまうのです。もう化け物ですね。
 歌手としてはフランク自身「一番上手い歌手はトニー・べネットだ」と認めておりましたし、仲間のサミー・デイビス・ジュニアをも大変高く評価していました。私はそんな太っ腹のフランクのエピソードが大好きです。マフィアと関係あろうとなかろうと私にとっては最高に魅力的な人物の一人です。
 未だにご縁のない1955年のMGM映画「The Tender Trap」を一日も早く観れますように。

天野 俊哉




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