TAP DANCE LOGO
INSTRUCTORS
STUDIO : 戸塚スタジオ
NETWORK
SCHEDULE
EVENTS
COLUMNS
DANCE TEAMS
LINKS
OUR MASTER : 佐々木 隆子
COLUMNS

Vol.1958 宝田明さん追悼〜オシャレな東宝映画の大スター
 映画の中だけでなく実生活でも超インテリだった俳優の宝田明さんが亡くなりました。生活感を全く感じさせない人だったので最後の公の場が車椅子姿だったのはさぞかしお辛かったのでは無いだろうか?しかしそんな車椅子姿でもダンディーな雰囲気は変わらずなので驚き、感心してしまいました。宝田さんよりやや年長で亡くなった私の父も生きるか死ぬかの状態で緊急搬送されたくせに病院から届いた最初のメールが「ひげ剃りと鼻毛抜きが欲しい」だったので呆れてしまいました。そして病室のベッド脇にはしわ一つ無い“外出用”のワイシャツとスラックスが必ずハンガーに掛けてありました。昭和世代のキザでオシャレな男性らしいエピソードですね。

 宝田明さんは4年前に『銀幕に愛をこめて/ぼくはゴジラの同期生』(筑摩書房刊)という俳優人生を綴った本を遺しました。1954年に19歳で東宝映画のニューフェースとして映画デビュー、亡くなるまでに出演した映画は数百本にのぼります。180pを超える長身に甘いマスクだったので最初から主演スター路線でした。また歌も歌えたのでミュージカル映画にも多く主演、映画と共に舞台ミュージカルでも大活躍しました。と、大変順風満帆な人生をおくられてきた宝田明さんなので先の本も記録として読むと面白いのですが、不幸なエピソードがほとんど無いためやや盛り上がりに欠けます。失礼。

 私ら戦後昭和世代の少年が知っている宝田明さんと言えば間違いなくゴジラ映画の大スターとしてです。1954年に東宝映画が大作『ゴジラ』の製作を発表、新人の宝田明さんと河内桃子さんが主演に抜擢され、撮影所のスタッフの皆さんに「主役を演じさせて頂きます!宝田明です!よろしくお願いいたします!」と元気に挨拶をしたら「バカヤロー、主役はゴジラだ!」と怒鳴られたそうです。笑えますね。確かに主役はゴジラさんの方ですが、宝田さんは本のタイトルにしているほど「今の自分があるのはゴジラのお陰」とずっと語ってました。逆に可憐なヒロインを演じた河内桃子さんの方は生前「ゴジラ映画のヒロインのイメージから逃げたくて逃げたくて!」と語る位ゴジラ嫌いで知られ、最後は舞台女優に転身してしまいました。しかし、時代がまだ昭和だった頃『ゴジラ』が映画館で上映されるたび、客席から大きな拍手が起こるのはゴジラでも宝田さんでもなく、オキシジェン・デストロイヤーを発明した芹沢博士こと平田昭彦さんが画面に登場する場面でした。

 ゴジラと共に有名になった宝田さんですが、『ゴジラ』をはじめとする特撮映画の主演作品はそれほど多くありません。
 1954年の『ゴジラ』の後に再びゴジラと共演するのは1964年の『モスラ対ゴジラ』まで10年かかってます。その間に主演した特撮映画は『獣人雪男』(1955)と『世界大戦争』(1961)くらいなものです。『獣人雪男』は現在は差別問題からDVD販売中止になっていますが、大学生の時に大井町にあった大井武蔵野館という名画座で普通に観ました。
 タイトル・ロールは雪男というよりゴリラにしか見えず登場する度に客席から笑いが起きていたのが懐かしい。
 『モスラ対ゴジラ』は葛飾に住んでいた小学生時代に地元の図書館の大きなスクリーンの下で見上げながら眺めたのが懐かしいです。

 私が小学生時代の昭和40年代、宝田さんが東宝映画で主演した作品はよくテレビ放映されていました。その中で《これぞ宝田明!》とぴったりだったのがイギリスの007を意識してシリーズ化された福田純監督のスパイ・アクション映画『100発100中』でした。宝田さんの役名が何とアンドリュー星野。これは面白かった!キザでインターナショナルな喋り方は生前最後の舞台挨拶の時の宝田さんと全く同じでした。この『100発100中』シリーズはウチにDVDがあるので宝田明さんの追悼上映会に予定してみたいです。
 この追悼コラムを寄稿したらY'sサイト管理者さんから「私にとって宝田明さんといえば『ミス・ユニバース日本代表選出大会』の司会がキザったらしくてイヤらしくて最高でした」と返信がありました。確かにそのイメージも強いですよね。
 宝田明さんのご冥福をお祈りいたします。

天野 俊哉



Copyright 2005 Y's Tap Dance Party. All rights reserved.