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Vol.1944 生誕70年記念〜佐々木隆子先生
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私たちの隆子先生、生きていれば70歳。
でも40歳の若さで亡くなってしまったから弟子の私たちの方が全然年上になってしまいました。なんか複雑!
ここ10年位良く見る夢があります。
すっかり近代的になってしまった京急蒲田駅に天国から帰ってきた隆子先生が公衆電話から南蒲田の自宅に電話をかけるのですね。
公衆電話って辺りが夢!
まあ夢だからなんだろうけど隆子先生のお母さまが電話に出るんです。
「あ、ママ、わたしなの、駅が変わってしまって家に帰れるかしら?」と話す。
そこまでなんですがね。
もし本当に帰ってきたら蒲田のスタジオには倉形裕代先生しかいらっしゃらず、佐藤昇先生も、押田勝年君も、淺野康子さんも、橋爪麻美さんも、隆江さんも私もみんな居なくなってしまって隆子先生の事だからブチ切れるんだろうな、とそこまで夢を見る事もあります。
有り得ない夢なんですがあの日あの時の隆子先生のままなので先生に逢えて嬉しいものです。
今まで隆子先生のエピソードは沢山コラムに書いてきましたが、最近先生が亡くなる数年前の私に話してくれたこんなエピソードを良く思い出します。
生前の隆子先生には舞台もテレビもイベントからもおびただしい数のオファーが来ていました。NHKなら『映画音楽大全集』『ザッツ・ミュージック』、日本テレビなら『笑点』『日本テレビかくし芸大会』、TBSなら『ザ・ベストテン』『サウンド・イン“S”』、フジテレビなら『夜のヒットスタジオ』『ミュージック・フェア』『素敵なあなた』『笑っていいとも』、テレビ朝日なら『独占!女の60分』、テレビ東京なら『ヤンヤン歌のスタジオ』など1980年代を代表するミュージック・バラエティー番組ばかりでした。
ただ、テレビ局や舞台やイベントのプロデューサー達はあくまでもプロのタップダンサー佐々木隆子が欲しいのでした。
が、隆子先生は先生が育てていた女性グループのブルーチェリーズ、男性グループのRYU、子供グループのスーパータップスを必ず自分と抱き合わせでキャスティングしていました。当時はダンサー時代で男性ダンサーならダンディーズ、ギャラクシー、女性ダンサーならクイーンズ、ニューホリデーガールズという長身で美形のプロのダンサーが100名以上はいたはずです。しかもバレエやジャズダンスだけでなくタップダンスもこなせました。それらを仕切っていた隆子先生とは親しいプロダクションのK氏からは「隆子ちゃん、もっとプロのダンサーを使わなきゃダメだよ」といつもガミガミ言われていたそうです。やはり長身で美形の隆子先生がダンディーなダンサー達をバックダンサーに使うことは隆子先生にとってもプラスになるのは当然でした。
K氏に言わせると、隆子先生がいつも先生のまわりで踊らせている私たちは「いもにいちゃん、いもねえちゃん」だとの事。最後のリサイタル(1991年)の時もK氏がすすめてきたのがハンサムな男性タップ・チームでした。相談された私は確かに自分たちよりも隆子先生には釣り合うのかな?と思いました。
しかし、隆子先生はK氏に
「でもね、わたしはKさんの言うその“おいもちゃんたち”が大事なの、ずっと一緒に踊っていたいの」
と、はっきり伝えたそうです。
今でもそう話す隆子先生の声が聞こえてきて幸せな気持ちになります。
隆子先生がわたしたちを愛してくれた事でおいもちゃんたちは先生が亡くなって30年経過しても日本のタップダンス界で活躍出来ているのですね。
お誕生日おめでとうございます。
永遠に感謝をこめて。
天野 俊哉
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