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Vol.1917 もうすぐ生誕100年ジーン・クレイン〜戦後ハリウッド映画の大人気女優A
 1940年代から50年代にかけてハリウッド映画で大変人気の高かった女優ジーン・クレイン。

《映画デビュー》
 1942年、17歳の時に美人コンテストで優勝したジーンのもとにハリウッドの全ての映画会社がスカウトに訪れたそうですが結局他社に先駆けて1番乗りした20世紀FOX映画と契約。競走馬を扱ったテクニカラーの美しい田舎映画『勝利の園』(1944)で売り出されました。続いてハリウッドきっての名監督ジョージ・キューカーの戦意高揚映画『ウィングド・ヴィクトリー』では若いパイロットの婚約者を演じて映画誌の表紙を飾り、オットー・プレミンジャー監督の『イン・ザ・ミーンタイム・ダーリン』では兵士のわがままな妻を演じて存在感を示しました。

《『ステート・フェア』でスターに》
 ブロードウェイ・ミュージカル『オクラホマ』(1943)の音楽を手掛けたリチャード・ロジャースとオスカー・ハマーシュタイン2世が初めて映画の為にオリジナル曲を提供する事になりました。それが『ステート・フェア』(1945)です。私は長いこと歌えないジーン・クレインが何故?と不思議に思っていましたが、20世紀FOX映画はジーン・クレインをアメリカの“ガールズ・ネクスト・ドア”として大々的に売り出すためこのロジャース&ハマーシュタインによるテクニカラー・ミュージカルのヒロインに抜擢したのです。田舎娘の役でありながらジーンが次々着用した衣裳は実に都会的で、ファッショナブルで、しかもトップ・レベルでした。
 ロジャース&ハマーシュタインが歌えないジーンの為に提供した“イット・マイト・アズ・ウェル・ビー・スプリング”という名曲が皮肉にも1945年のアカデミー主題歌賞を受賞してしまいました。
 『ステート・フェア』は1945年にアメリカで上映された全映画のベスト7位にランク・イン、トップ・ビリングを飾ったジーンは若干20歳でハリウッド映画のトップ女優になりました。

《摩訶不思議な1946年》
 1946年にジーンが出演した3作品はアメリカで公開当時何れも爆発的大ヒットをしております。
 ヴァラエティ誌によると
 ベストセラーの映画化『哀愁の湖』がベスト2位
 1920年代を描いたミュージカル『マージー』がベスト16位
 1800年代を舞台にしたミュージカル『センティニアル・サマー』がベスト35位らしいのですが、2021年の今観てもまるでピンと来ないのは不思議な事です。
 ちなみに『哀愁の湖』の次点がビング・クロスビーとフレッド・アステア主演の素晴らしいミュージカル『ブルー・スカイ』、『マージー』の次点がケイリー・グラント主演の素晴らしい伝記『夜も昼も』、『センティニアル・サマー』と同点がハンフリー・ボガート主演の素晴らしい探偵映画『三つ数えろ』なんて。
 しかし、これらの数字はジーン・クレインがお客さんを呼べる大スターだった記録なのです。1946年当時のアメリカの映画観客がスクリーンに映る可愛いジーンの姿を見て自分の娘だったり、自分の奥さんだったり、自分の恋人をイメージしたに違いありませんね。

天野 俊哉



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