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Vol.1905 もうすぐ生誕100年ジョーン・レスリー〜ハリウッド映画のアイドルスターA
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アメリカが第2次世界大戦に参戦していた1940年代にワーナー映画の大スターだったジョーン・レスリーがもうすぐ生誕100年をむかえます。
『アリス・イン・ムービーランド』(1940)
ハリウッドでは監督らスタッフでも俳優でも20分程度の短編映画からスタートする場合があります。当時見習いのジーン・ネグレスコ監督は、後にフレッド・アステアの『足ながおじさん』等の名作を撮ることになります。まだ15歳のジョーン・レスリーはすでに堂々の主演、若い娘アリスがハリウッドで大スターになる、という夢物語ですがこの後ジョーンは本当にスターになってしまうのです。
『ハイ・シェラ』(1941)
凶悪なギャング俳優で知られたハンフリー・ボガートがセンチメンタルなギャングを演じて一躍大スターの仲間入りをした記念すべき作品。ボガートは主演のアイダ・ルピノではなく足の悪い娘ジョーンに想いを寄せますが、惚れた相手が悪かった。夜空を見上げながら41歳のボガートがジョーンの手に自分の手を重ねる場面がありますが今見ると不自然で笑いが?ジョーンの役は凄くイヤな女なのにそこまで演じきれてないのが物足りないです。とても愛嬌のあるワンコ役者の方が魅力的でした。
『ワゴンズ・ロール・アット・ナイト』(1941)
1936年のボクシング映画『倒れるまで』をサーカス映画として再映画化。サーカス団の団長役を演じたハンフリー・ボガートは初のトップ・ビリング。妹役のジョーンがライオン使いのエディ・アルバートと恋をして兄のボガートを怒らせる!まるで近親相姦みたいな展開になってゆくかなり変わった映画です。後年、エルヴィス・プレスリー主演のボクシング映画として再再映画化されました。
『ヨーク軍曹』(1941)
第1次世界大戦中の英雄ヨーク軍曹の伝記映画。ハワード・ホークス監督が主演のゲイリー・クーパーにアカデミー主演男優賞をもたらしました。ジョーンは田舎育ちの素朴な娘を演じましたが、初めてテレビの映画劇場で観たときはクーパーとジョーンの絡みがほとんどカットされてました。
『ヤンキー・ドゥードル・ダンディ』(1942)
ブロードウェイの伝説として知られるジョージ・M・コーハンの伝記映画。ワーナー映画の大スター、ジェームズ・キャグニーが堂々の主演でアカデミー賞を受賞しました。ジョーンは舞台女優からコーハン夫人になるメリー役で初めて老け役にも挑戦しました。キャグニーの芝居に感動したジョーンが楽屋を訪ねる場面でのジョーンがとても新鮮でした。ミュージカル・ナンバーでは器用に肩を動かすソロ、大スターのキャグニーとのデュエット“ハリガン”も物怖じせず良いコンビネーションを見せてました。残念だったのがコーハンの名曲“メリー“が吹き替えだった事。3つの大きなダンス・ナンバーの中でジョーンは沢山の星条旗が画面一杯に登場する“ユア・グランド・オールド・フラッグ”ナンバーに出演、キャグニーとジーン・キャグニーとトリオで物凄いスピードでアイリッシュ・ステップを踏みますがサイド・シャフルも接続のスラップもキチンと踏めているのが嬉しかったです。
私が『ヤンキー・ドゥードル・ダンディ』を初めて観たのは1980年に16oフィルムででした。目の前の大きなスクリーンで繰り広げられる強いアメリカの戦意高揚映画にただただあ然としてしまいました。古いハリウッド映画が日本でビデオ発売されるタイミングで劇場での上映が頻繁に行われたのですが、1986年には『ヤンキー・ドゥードル・ダンディ』が劇場で初公開されました。製作されてから何と44年後でした。白山にあった三百人劇場で上映された時に阿部久志さんと観に行ったのですが、阿部さんはジョーンのソロ・ナンバーでの肩を動かす振付が偉く気に入った様であの頃よく練習してました。私は例のアイリッシュ・ステップの方でしたよ。
つづく
天野 俊哉
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