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OUR MASTER : 佐々木 隆子
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Vol.1860 Y's取材班さん生誕祭H最終回 ビッグ・チャンス
 ショー・ビジネスの世界で病気や怪我は厳禁であります。どんなに体調が悪くても最後までやり遂げなければならないのです。
 もし病気や怪我で休演や降板する人間が出た時に、代役に選ばれた人間はそれをチャンスとして受け止め、本役以上の成果を出さなければならないのです。
 取材班さんがタップ・ダンスを始めて10年目にタップ・ダンサーとして最大のチャンスが巡ってきました。
 しかもそのチャンスを作ったのは皮肉にも私でした。

“ヴォードビル・デイズ”(2000年4月)
 毎年春に新宿の中劇場シアターアプルで開催されていたタップ・ダンスの祭典『ナショナル・タップ・デー』にその年も皆で元気よく参加する予定でした。
 佐藤昇先生、押田勝年君、私の3人が振付を担当して年明けから4作品の稽古を始めていました。久々に阿部久志さんに出演してもらおうと“ヴォードビル・デイズ”を持ち出しました。4年前に阿部さんをフィーチャーしたものですね。阿部さんのバック・ダンサーとしてインストラクターの男性4人と、例のピンクのチュチュを着こなせる(であろう)女性4人を選びました。

 全ての振付が終了した段階で押田君のパートナーの女性が出演不可能になりました。2月になり今度は私が病気になり入院する事に。女性の代役は早々に決まりましたが私の代わりって?
 まだ若かった私は入院して、手術して、退院してから稽古をし直せば本番に間に合うと計算をしていたのですね。が、いざ入院して検査をすると「タップ・ダンスなんてとんでもない!」という空気になってきました。
 全てを諦めた私は淺野康子さんに電話をかけ、以前阿部さんと踊ってくれた取材班さんへの交渉をお願いして、そして引き受けて頂きました。
 残念ながら私がスタジオの稽古を見学出来たのは本番直前になってから。取材班さんがどれだけの苦労を重ねたのかは分かりません。淺野康子さんによると他のペアとは明らかに雰囲気が違っていて取材班さんも、パートナーの女性も対抗意識むき出しで、踊ってるというより闘ってるみたいで見ていて笑いが止まらなかったそうです。後で聞いたところによると、取材班さんのパートナーになってしまった女性は「天野先生と踊りたかったから出演を決めたのに!なんでこの人と?」という不満もあって、そんな雰囲気になってしまったようです。どちらにもすみませんでした。

 シアターアプルでのリハーサルと本番の頃には大分元気になったので見学にうかがいました。取材班さんがキラキラしたミラーボールの照明の中で物凄いスピードでタイム・ステップやウイングのステップを踏む姿に感動して、そして感謝しました。

 さて、9回に渡ってY's取材班さんの還暦を記念したコラムをお送りして参りました。10年という短い時間の中でスピードとテクニックを要求されるタップダンスばかりに挑戦させられ、それらをひたすら努力で乗りきってきたのは本当にお見事でした。
 その後の活躍はまたの機会に。

天野 俊哉



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