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OUR MASTER : 佐々木 隆子
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Vol.1829 1991年春のイベント(その1)
 私は日記を書かない人間ですが、この仕事を始めた1985年以降の手帳だけはキチンと残してあります。きたない文字で記録だけは存在してるわけですね。前回、佐々木隆子先生が病気をされタップダンス・スタジオ合同のイベントである『ナショナル・タップ・デー』に参加した事を書きましたが、改めて1991年春のページを覗くと驚くことばかり。まず沢山のイベントがその開催直前に突如オファーされている事、その全てを受けて、それらの稽古が同時進行している事です。この時期に8ミリビデオを購入したので沢山の映像が残されています。ビデオから撮影した珍しい写真をあわせて掲載してゆきますね。キャスト名は現Y'sメンバーになります。

3/14(木)日活スタジオ
阿部久志・押田勝年

 前年の1990年9月28日に撮影された日活映画『落陽』のダンス場面“ディガ・ディガ・ドゥー”にタップの音をダビングするために半年ぶりに調布の日活スタジオへ。ダンサーは佐藤昇先生、阿部久志さん、向井雅之さん、男性の生徒さんと天野の5人でした。このダビング作業の少し前に私が教室で転倒して足首を痛めてしまったので代わりに押田勝年君が参加してくれました。彼って直ぐにステップを覚えてくれたのですね。ダビング・ルームでスクリーンに映し出される自分達の脚を観ながらステップを踏んでゆくのですが、頻繁に映し出される生徒さんの脚が振付から微妙にズレていたせいか演出家のOKが中々出なかったのです。手術直前の隆子先生が私達に同行してくれました。有名な日活スタジオの食堂で隆子先生を囲んで食べたランチが美味しかった。完成された映画が劇場公開されたのは翌年の秋でしたので隆子先生には観て頂けませんでした。

3/29(金)渋谷BEまつり
橋爪麻美・阿部久志

 橋爪さんが担当していたカルチャー教室の発表会で、当時の渋谷東急プラザの正面入口に仮設ステージを作り開いたイベント。デモが決定してキャスティングしたのが2/3(日)とメモにあります。私の映像には当時の東急プラザ、隣接する三井信託銀行、バブルで華やぐ金曜日の渋谷の夜が記録されています。橋爪さんを中心に阿部さんと向井雅之さんのトリオで“オパス・ワン”を踊りました。女性司会者と橋爪さんの抱腹絶倒のやり取りを皆さまにお聞かせしたい。

3/31(日)日本橋三越屋外ステージ
押田勝年・橋爪麻美

 開催決定がまさかの1/27(日)、久しぶりに映像をチェックすると流石に参加団体は少ない!しかも雨の中でリハーサルをしたのですね。ダンサーにしてはお育ちの良いお嬢さんの集団でしたので小雨でも傘をさしながら場当たりをしているのが笑える橋爪さんのソバージュのヘアスタイルが懐かしい!
 流石にこの後にナショナルが控えているせいかメンバーによるデモンストレーションはたった3曲。押田君がリード・ダンサーをつとめる“リズム・ネーション”も珍しい!押田君があんまり痩せて細いので女性かと勘違いしてしまいました。橋爪さんは“エニシング・ゴーズ”と“エントリー・アクト”を元気いっぱいに踊りました。

4/12(金)〜5/6(日)青山劇場『アニー』
 2/11(月)からタップ場面の稽古をスタートしました。この年からアニー以外の孤児全員で“おしゃれは笑顔から”でタップを踏む事に!モリー役の海宝茜さんは当時5歳、当然ステップなんかおぼえられない。夜遅い稽古場で茜さんの若いお母様をつかまえて隆子先生「お母さんがキチンとステップを覚えて教えてきて下さい!」そばで聞いていた私はそんな無茶なぁと驚きました。
 “NYC”というナンバーにはタップ・ソロを踏む子が各グループからひとりずつ選ばれました。片方にはIIさんというめちゃくちゃ踏める女の子が、もう片方はMAさんというタップをほとんど踏めない女の子でした。そんなMAさんですが蒲田のスタジオまでかよってもらい10時間以上特訓に特訓を重ねて初日までに素晴らしく成長、芸事は不器用な人ほど伸びる!という事を学びました。今でも日本テレビで放送されたメイキング番組をよく観ます。

 つづく

天野 俊哉



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