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OUR MASTER : 佐々木 隆子
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Vol.1492 劇団四季の創設者、浅利慶太氏追悼にかえて
 先月の18日、銀座の山野楽器までブロードウェイ・ミュージカル『パリのアメリカ人』のCDを買いに出掛けました。近々劇団四季での上演が決まっているので「そろそろ予習でもしようか?」というのが購入の理由でした。
 その日の夕方、劇団四季の創設者であり、演出家の浅利慶太氏の訃報(亡くなったのは7月13日)を知りました。「またこのタイミングかい?」と呆れましたが「浅利慶太氏なんてあまりに偉大すぎて追悼コラムは無理だな」と、すぐにあきらめてしまいました。
 おまけに私と劇団四季の繋がりは大学時代の数年に限られており、日生劇場での
『エビータ』
『アプローズ』
『日曜はダメよ』

 外部劇場での
『コーラスライン』
『ウエストサイド物語』

 だいぶ後になっての
『CRAZY FOR YOU』
『壁抜け男』

 見事にこれだけです。
 私にとっての浅利慶太氏は、劇団四季を大企業レベルにした事から分かるように、もう舞台人とか演出家とは思えなくなっていました。

 さてそれから2週間後、有楽町駅前にある舞台関連グッズ満載のお店である宝塚アンに寄りました。
 宝塚関連が7割くらい、残りは劇団四季、東宝ミュージカル、OSK、ブロードウェイ・ミュージカルなどでしょうか。ミュージカル好きのかたは宝塚だけでないので一度覗いてみる価値はありますよ。
 ミュージカル雑誌・書籍コーナーで今でも刊行されている「月刊ミュージカル」の創刊第3号を見つけました。1983年6月に発売されたもので、表紙は先日亡くなった元宝塚のトップスター順みつきさん。さらに《今月の特集/劇団四季》とありました。
 残念ながらビニールが掛けられていて中身が確認出来ないのだけど、もしかしたら私が長いこと探していた一冊なのかも知れない!
 税込み¥1000だけど運命を感じてレジに進みました。
 そしてお店を出て直ぐに目次のページを開くと《浅利慶太という演出家〜千野幸一》なるコラムが。
 ありました!ありました!
 これが読みたかったのです。
 千野幸一氏とは当時日刊スポーツ編集委員であり演劇評論家をしていた私の伯父にあたる方です。
 35年ぶりに読む文章はあまりに懐かしい。偉大な浅利慶太氏のごく普通というか、素朴な一面がよく表れていて私はこの千野氏の文章が大好きなのです。

 「このところ、毎年五月になると、小さな山菜の包みが浅利慶太氏から届く。
 〜中略〜
 浅利氏からは簡単な挨拶状がおくられてくるのだが、そこに添え書きがしてあって、山菜の食べ方が丁寧に書いてある。
 ずいぶん気のつく人だなと思い、その心遣いが嬉しい。浅利慶太氏には、そんなやさしさがある」。

 ね、良い文章ですよね。
 学生時代に何度も何度も読み返したものです。
 千野氏と浅利氏は劇団四季創設時代からの友人でしたが、プライベートな付き合いはほとんど無くて麻雀を一度だけやったエピソードが笑える。

 「麻雀は性格を出すといわれるが、この時の浅利氏はバカでかい手ばかりを作った。そのド迫力にこちらはオタオタしたのを覚えている。激しい気性が麻雀にも出たのだなという気がする」。

 また、世渡りがあまり上手くなく、本音の方が多かった千野氏(天野個人の意見)らしいのが
 「ぼくの書いた劇評に文句を言って、電話で激しく詰め寄られたこともあった。そうかと思うと、逆に、悪口を書いても、それが納得行けば、わざわざお礼の電話をくれ、冷静に舞台を分析して聞かせてくれたこともある」。

 うちの両親は何故か「千野氏、千野氏」と呼んでました。ちょうど松本晋一さんが白川希さんの事を「白川氏、白川氏」と呼ぶのと似ていて可笑しい。
 さて、そんな千野氏ですが、サラリーマン人生の哀しいところで、定年前に大好きな演劇部門から新聞のテレビ・ラジオ欄の担当に移動を。さらには大きな病気をして、今から20年前の8月に亡くなりました。葬儀会場で演劇関係者からのお花がとても少ない中、浅利慶太氏からのお花はとても嬉しかった。浅利氏の名前を眺めながら、お二人が本音で語り合える良い関係を築いていたのだな、と思いました。

 浅利慶太氏のご冥福をお祈りいたします。

天野 俊哉



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