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OUR MASTER : 佐々木 隆子
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Vol.1421 NTD1991年以降秘話〜なぜ声がかからなくなったのか?
 1991年4月に開催された第一回目のNTDで、当時私達が所属していた佐々木隆子タップダンス・スタジオからは、佐藤昇先生をフィーチャーしたジャズ・ダンスの“Hanky-panky”とタップ・ダンスの“Pep Vim and Verme”で参加しました。
 ちなみに今と違って踊ることに意欲的でなかった私はマネージャー役に徹していました。

 当時の私の手帳から。
《1991年3月4日(月)2時から赤坂東急プラザホテルのコーヒーハウス》
 牛丸謙先生をはじめとする偉い先生方が集まる最初の顔合わせに恐る恐る参加しました。
 牛丸謙先生
 向井好一先生
 並木敏夫先生
 中川裕季子先生
 輝ひさし先生
 松本真理先生
 藤井真梨子先生
 榎戸利恵先生
 本間窓奈さん

 わずかに本間さんだけがこの日以来親しくさせていただいてますが日本タップ界のレジェンドばかりで、とにかく緊張しました。何をどう話したか記憶にございません。

《3月28日(木)3時半から6時半まで。中野坂上マリアート・スタジオ》
 前半第1部ショータイムのフィナーレ振付。フィナーレ8人のメンバーを代表して阿部久志さんと橋爪麻美さんを連れて藤井真梨子先生の振付に。佐々木スタジオという温室で育った私達が最初にうけたカルチャー・ショック。日本のタップ界には凄いタップダンサーが沢山いる!男性では玉野和典さん、女性では冨田かおるさんがピカ一でした。
 この日、最後にスタジオの床に分厚い茶封筒をバサバサッと置いた牛丸先生。適当に拾い上げて中を見るとノルマのチケットでした。
 くじ運の悪い私は変な座席ばかりの封筒を選んでしまったようでした。

《4月21日(日)用賀ホリプロ・スタジオ》
 初めての合同稽古でした。芸能界の人らしく牛丸先生はやたら高価なスタジオを使っていました。
 松本真理先生が担当された第2部のフィナーレの振付が楽しくて、最初スタジオ関係なく背の順に並んでみよう!というやや無茶なプランからスタートしました。
 当時のNTDには子供の出演は有り得なかったので、小柄な冨田かおるさんや淺野康子さんが最初の方にいましたね。良く覚えてます。

《4月27日(土)〜28日(日)シアターアブル》
 今となっては貴重なのが2時間にわたって私が勝手に撮影したリハーサル映像です。
 せっかちな牛丸先生に振り回されて困っているスタッフさんの声までが収録されてます。
 私はこの日初めて冨田かおるさんと口をききました。新宿コマ劇場の入り口辺りでシアターアブルの楽屋口を探してらしたのです。私がお連れしますよ!とご案内しました。
 まさか、今日まで長いお付き合いになるなんてこの時は思いもしませんでした。

 さて、この後第2回目の1992年と第3回目の1993年のNTDに佐々木隆子タップダンス・スタジオは牛丸先生から声がかからなかったのです。これは隆子先生が亡くなった事情とは全く関係なかったのですね。これは佐藤昇先生からうかがった話です。
 某カルチャー・スタジオの支配人がカルチャー教室でのタップダンス講座を拡大すべく牛丸謙先生のご自宅をたずねました。この支配人、牛丸先生のキャリア等を全く把握せずにたずねたせいか「佐々木隆子先生の事は良く存じてますが、牛丸先生、の事は・・・あまり」とつい本音をポロリ。「何ぃ?お前!牛丸謙を知らないのか、バカ野郎!」と激怒され追い出された!とか。

 私も若かったので逆に「バカ野郎」くらいに思って、NTDは観てればそれで良いと思うようになりました。
 藤井真梨子先生や本間窓奈さんらNTD開催に貢献された方々が少しずつ牛丸先生から距離を置くようになり、NTDもタップダンスだけでなく、サーカスみたいなダンスと無関係な見世物が増えてきました。
 そんな酷い1993年の公演を観たシアターアブルの劇場で評論家の瀬川昌久先生とバッタリお会いしたのです。瀬川先生は目に涙をうかべ「佐々木さんを、タップ界をとても期待していたので大変残念です」みたいな事を私に話され、その年のNTDの酷さを嘆いておられました。

 何とかできるものなら何とかしたいなぁ〜と思っている矢先、私の当時の生徒で友人の向井雅之さんがまさかの救世主となりました。

天野 俊哉


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