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OUR MASTER : 佐々木 隆子
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Vol.14 「舶来音楽芸能史−ジャズで踊って」を読んで
音楽・演劇・ミュージカル評論の第一人者でいらっしゃる瀬川昌久先生には、私達が出演する公演をご鑑賞頂いたり、時には司会を務めて頂いたり、また編集長を務めていらっしゃる「月刊ミュージカル」(ミュージカル出版社刊)の時評に取り上げて頂いたりと大変お世話になっています。
その瀬川昌久先生の著書「舶来音楽芸能史−ジャズで踊って」(清流出版刊)を拝読させて頂きました。
ジャズの発祥から日本への渡来、そして太平洋戦争が始まるまでの日本におけるジャズ・タップなどについてが豊富に記されており、とても勉強になりました。
詳細は著書を読んで頂くとして、今回は私が特に印象に残った章「戦争中のジャズ音楽禁圧」と「学徒出陣から戦後の復員作業まで」に触れさせて頂きましょう。

戦争中は様々な舶来のものが禁じられたそうですからジャズも然りとしても、楽器の数まで制限されたとは知りませんでした。
当然、バンドも思うような演奏ができなくなったようです。
あくまで想像ですが、「戦争中に何事だ!」のような国威発揚的世論の中、音楽や舞踊、絵画などいわゆる芸術家の中には、肩身の狭い思いをされた人もいたのではないでしょうか。
瀬川先生が1944年(昭和19年)に学徒出陣で築地の海軍経理学校に入隊されたことも書かれてあり、相当厳しい訓練があったようですが、翌1945年(昭和20年)、戦争は終わりました。

携帯用のラジオから流れてくる音楽を耳にしながら横濱港の氷川丸(終戦当時は復員輸送船)で仕事をされていた瀬川先生は「氷川丸船上で何かできないだろうか・・・。プロの楽団を呼んでコンサートを開けないだろうか!」と考えたそうです。
早速東京に出向いた瀬川先生はバンド・マネージャーに意志を伝え、「ギャラを現金で支出するのが難しいので食料で差し上げたい」の条件交渉でOKをもらったそうです。
食糧難の時代ならではのエピソードですが、実現できた時、瀬川先生は「涙が出る程嬉しかった」そうです。
読んでいる私は自然に涙がこぼれてしまいました。
私達には想像もできない苦難の時代に、音楽を愛し、戦争で打ちひしがれた人々の心を音楽で明るくしようと奔走し、情熱を燃やした人がいて、そしてその情熱に応えてくれた人達がいたのです。
今までは当たり前のように目に映っていた氷川丸も、今度見る時はこのエピソードを思い出すかもしれません。
その時はきっと、ギャラ代わりに食料でOKしてくれたバンドメンの奏でるJAZZが聞こえてくることでしょう。時を越え、私の心に・・・。
そんな"情熱人達"がいたことを知って頂きたいと思い、ここに取り上げました。

瀬川先生、感動を有り難うございました。
ますますのご健勝とご活躍をお祈り申し上げます。

淺野 康子



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