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Vol.1357 佐々木隆子先生時代(1987〜1993)のミュージカル『アニー』そのA
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ここでタップダンス以外の出来事にも目を向けてみましょう。
日本での『アニー』公演はちょうどバブル期とぶつかりましたので、初期のスポンサーは日本信販や明治生命などの大手でした。
隆子先生から聞いた話では、1989年頃に製作会社が倒産してギャラの出なかった年があったとか。
アニーズに関しては、ある年にオーディションで選ばれた子供達の身長が高くなりすぎてしまい、大人との差をつける為にアンサンブル・ダンサーを選び直した時もありました。
また、女性のダンサーが本番直前に怪我をしてしまい、急遽名倉加代子先生のお弟子さんで、『アニー』のジャズをずっと指導されていた三村みどり先生が代役で東京公演をこなした事もありました。
内輪しか知らない話としては、オフレコかも知れませんが、私が担当した最後の公演の時でしたか、青山劇場の楽屋で子供達から「先生、サンディが死んじゃったんだよ」と聞きました。
さらに、その代役のわんこもストレスで亡くなったそうです。子供達は、そんな辛い状況を乗り越えて舞台にたっていたのですね。
さて、隆子先生が亡くなった後も篠崎先生は、「隆子先生のタップダンス振付を残してゆきたい」と、おっしゃって再び私達がタップダンスを担当する事になりました。
この93年は、稽古場も日本テレビ、青山劇場に加え豊洲から歩いて10分位のところにあった倉庫みたいな稽古場と目まぐるしく移動しました。
隆子先生の代わりに自分が全てを引き継ぐ緊張感は並大抵な事ではありませんでした。まだ30歳を少し過ぎたばかりの若造でしたし、自分自身のキャリアも浅かったのです。しかも目の前にいるアニーズを期間内に完璧に育て上げなければならなかった。
ただ私が、「どう指導したら良いのだろうか?」と迷っている時でも、演出の篠崎先生は辛抱強く見守って下さったり、ジャズダンス振付の名倉先生や三村先生は少ない言葉で然り気無くアドバイスをしてくださいました。豊洲の倉庫から暗い夜道を歩きながら、教えに行ったのに教えられたなぁ?なんて若かった私は反省ばかりしておりました。
私は1993年公演までを担当し、翌年からは佐藤昇先生に引き継ぎをお願いして、卒業させていただきました。
その最大の理由が、平日夜や週末の『アニー』の稽古の為に、自分の生徒が待つ教室に通えなくなる事でした。『アニー』の子供達の熱意は素晴らしくて、自分ののんびりした生徒達とは比べ物になりませんでしたが、自分はこの生徒達を指導して行く事が大切だと。ところが今度は、佐藤先生の週末の教室に私が毎週の様に代講で通うようになってしまったので、佐藤先生の生徒達には申し訳なく思ったものでした。
また、運命だなぁ〜と思うのは、もし私がこの春の『アニー』公演を続けていたら、私達のスタジオがシアター・アプルでの牛丸謙先生主催の『ナショナル・タップ・デー』(1995年以降〜)に呼ばれる事は200%無かったはず。厄介な事情が色々あったのですよ。
2000年代に入り、篠崎光正先生をはじめとするオリジナル・スタッフから、新しいスタッフに入れ替わり、今年2017年からはさらに新しいスタッフになりました。
私はこれで良いとおもうのですね。
篠崎光正先生時代の『アニー』は今や伝説です。残念ながらその頃の舞台映像を観ることは不可能ですが、毎年日本テレビで放送されてきたメイキング番組は残されています。出演したアニーズみんなの宝物になっているはずです。
それぞれの時代に生きた『アニー』が一番素晴らしいのですね。
★掲載写真は、佐々木隆子先生が亡くなって直ぐの1992年4月24日に日本テレビ朝の情報番組『ルックルックこんにちは』で放送された映像からのもの。実際の『アニー』のメイキング番組では、カットされた部分が流されました。亡くなる半年前まではこんなに元気だったのですね。
★また、隆子先生がトリビュートされた『ナショナル・タップ・デー2014』の時に、私の知る限りのアニーズOG達に隆子先生のアニー稽古場でのタップダンス指導ビデオの存在を聞いた時にそろって返ってきたのが「隆子先生はビデオ撮影が絶対にNGだったんです!」という言葉でした。
こんなに早くいなくなるんだったら沢山隠し撮りしておくべきでした。
もし、このコラムを読んで「実は家にはあるんですよ!」なんて方がいらしたら必ずご連絡下さい!
天野 俊哉
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